幸せな生き方ってどんな生き方ですか?

こんにちは、長井啓悟です。

先日、号外という形でバックナンバー公開のお知らせを
メルマガで配信させていただきました。

今回でまだ9回目の配信ではありますが、メルマガを始めてまだ2ヵ月も経ちませんが
少しづつではありますが着実に購読者の方が増え続けていることはとても励みにもなり、
よい緊張感を保つモチベーションにもなっています。

なにより「バックナンバーは見れないのですか?」というご要望を
何人かの読者様からいただけたのは本当にありがたく、とてもうれしいことです。

毎回、こんなの読んでもらえるのだろうか?
こんな稚拙な切り口で人の心になにを訴えられるのだろうか?

そんなことを考えたりすることも少なからずあります。

自問自答を繰り返しながらもみなさんにお届けしている
僕の拙い文章を読んでくれている人がいる。

向上心と感謝を忘れずに、これからも読者の方それぞれに
なにかを感じていただけるような記事を書いていければと気持ちを新たにしています。

これからもどうぞよろしくお願いします。

それでは長井啓悟のメールマガジン、最後までよろしくおつきあいください。

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幸せな生き方ってどんな生き方ですか?
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「幸せな人生とか、幸せな生き方ってどんなものですか?」

「そもそも幸せってなんですか?」

「自分が幸せかどうかよくわからないんですけど」

「仕事もそこそこ、収入もそこそこ、それなりに評価もされてるのに
なぜか満たされない…」

そんなふうに云う人は少なくありません。

僕もそうだったのですが、幸せってとても特別なもので、
非日常な体験や時間を過ごすことだったり、何かを手に入れることのように
考えてしまいがちですが決してそうではありません。

よく云われることですが、日常の何気ない、一見当たり前のようなことが
実は特別なことであり、幸せであるということ。

帰る家がある、あたたかい家族がある、毎日3度の食事が摂れる、
毎日風呂に入れてフトンで寝れて・・・

数え上げたらきりがないくらい、日常、私たちの周りには幸せがたくさん溢れています。

意識の向く方向、見ている先が変わるだけで、
私たちはいくらでも自分が幸せであることに気づき、それを感じることができるのです。

心が自由で、制限の少ない人ほど、ささいなことに幸せを見出すものです。

そう、幸せを感じられる人に「当たり前のこと」は存在しません。

すべてが特別で、周りのすべてに素直に感謝できる人です。

それはどういうことかというと、心が自由な人は感じる力が豊かです。

感じることに制限をかけていないから、あらゆる事象に対して発想も受け取り方も自由です。

そう、受け取り上手な人も多いですね。

つまり「これはこういうものだ」とか「こうでなければならない」だったり
「そうでなければおかしい」といった固定観念や常識に縛られていないからです。

「ねばならない」

「べき」

という考えに支配されていないからです。

一方、子どもの頃からこうしなさい、ああしなさい、こんなふうになりなさいと、
親の価値観をおしつけられて育ってきた人は、自分の意思で、心で目で、
ものごとを見たり判断したりということが出来ない人が多いです。

親の価値観をそのまま自分のものとして、自らを型にはめた生き方をしている人は、
親が奇麗だと云ったものを綺麗と云い、親が素晴らしいと云ったものを素晴らしいと思う。

親が価値があると云うものに価値を感じ、価値がないと云うものには価値を感じない。

というより感じてはいけない、自らの価値観など持ってはいけないと
信じてしまっている人は決して少なくありません。

関口さんは美しい花をみて、素直に「美しい」と言葉にすることができますか?

周りのほとんどの人がそんなに綺麗かな?と言っていても「綺麗だ」と言えますか?

では親や、あなたより目上の人や、お世話になっている人が
あなたと違う意見だったとき「私はそうは思いません」とはっきり言えますか?

生きづらさを訴える人と話していると、
「言ってはいけない」「感じてはいけない」「思ってはいけない」
究極「自分であってはいけない」
そんな生き方を選択している人がとても多いように感じます。

【自分の心に、感覚に響くもの、これだと思うものを信じ従う】

僕は思うのです。

自分で見て、触れて、感じるままを受け取り、その思いに正直に生きる。

それこそが幸せな生き方ではないのでしょうか?

誰かのために価値観を歪める必要がありますか?

だってあなたはあなたであり、僕は僕であり、あなたも僕も自分のために
自分の人生を生きているのです。

大袈裟でもなんでもなく、自分の生き方や在り方に少しでも疑問を感じている人は、
自分は誰の人生を生きているのか?ちゃんと自分の人生を生きているか?
今一度ご自身に問いかけてみてください。

そして何か違うと感じたり、違和感を感じるのであれば、
軌道修正されることをおすすめします。

僕でよければいつでもご相談ください。
僕はそのために心のセラピストとして活動しています。

自分で生きていけない子どもならいざ知らず、僕たちはもう成人し、
自分で選択し、自らの力で生きていける立派な大人なんです。

どんなに親の云うとおりの生き方を選択し、大人になってまた上司や周りの人たちの
価値観を優先し、云われるがままに生きることで選ばれ、認められたとしても、
もしそれで生きづらさを感じ、満たされない思いを抱えているとしたら、
それは自分の人生でもなければ幸せな生き方でもなく、ただ人に決めてもらう、
支配される人生を生きているに過ぎません。

端から見て本当に幸せそうに生きている人は、
自分で自分の価値をちゃんとわかっています。

他人に自分の評価を求めたりしませんし、人から認められようとか、
そのために人に気に入られるための行動をとったり、ときに誰かを陥れたり、
金銭的、物質的な成功や権威をまとうことを求めたりしないものです。

自分は人から見てどのように映っているのだろうか?正しいのだろうか?
まちがっていないだろうか?などと自分を疑ったり、
責めたりするようなことはしないのです。

たとえばどんなに周りから、あなたは優秀です、素晴らしいですと評価され
認められたとしても、それが周りや評価してくれる人の期待に添うために
発言したり行動したりした結果であれば、果たして本当にそれは本人にとっての
幸せであると云えるでしょうか?

だったらなぜ自分の中で言いようのない窮屈さを感じたりするのでしょう?

僕は自分の中の過去と対峙したとき、自分で選べなかったことやできなかったこと、
親や周りに屈して自分の思いを遂げられなかったことに、
とても感情を揺さぶれることに気づきます。

【悔いを遺さない、他人に委ねない、自分に誠実でいること】

この先幸せに生きたいと願うのであれば後悔をしないこと。

誰かのための選択、他人の価値観の優先をしないこと。

そのためには最初から正直に、素直に、自分に対して誠実な選択をすることです。

誰かの期待に応えられなかったり、嫌われたり、離れられたりすることは
たしかにつらいことかもしれません。

しかしそれらは長い人生のほんの一部であり、一瞬の出来事に過ぎません。

そんな一時的な痛みをさけるために、自分という存在を自分で否定してしまうほど
本末顛倒なことはありません。

どんなに周りに評価され認められても、求められても、その生き方が、在り方が、
自分が心から望むものでなければ、僕は、僕だったらまちがいなく不幸です。

心から幸せであると実感して生きたいのであれば、それまで信じて疑うことのなかった
親や他人からもらった価値観を手放すこと。

仕事、環境、人間関係など、その過程で起こる別れもまた、
あなたが自由で幸せに生きるために手放す必要があるもののひとつに過ぎません。

恐れずに自分の心の声に誠実であること。

幸せの大きさとは、自分で自分のことをどれだけ大切に出来ているかに比例する。

僕はそう思うのです。

ではまた。
最後までお読みいただき本当にありがとうございました。

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『編集後記』
関口さん、今回のメールマガジンいかがでしたか?

私事ではありますが、僕が経営しているリラクゼーションのお店が
この2月で開業8周年を迎えさせていただきました。

開業前、周りからは、こんな不景気な時代にやめとけだったり、
おまえなんかに絶対無理、3年もったら認めてやるわなど
けっこう辛辣なことを云われたり、反対されたりしたものです。

資金的にも潤沢であったわけでもない、決して順風満帆でない状態で
スタートしたお店でしたが、地域のお客様、頑張れと応援してくださった
方々に支えられての8年間だっただけに感慨深いものがあります。

今も決していいことばかりではありません。

むしろ苦しいことのほうが多いかもしれません。

でも振り返れば、ただ人を癒す仕事が好きで、やりたくて、その一心で
始めたこと。

思いというエネルギーに妥協せず、躊躇せず突っ走れたことは、僕にとって
経済的、物質的成功よりも大きな成功であり財産であると信じて疑いません。

出来上がったお店を見たとき、初めてお客様がいらしたとき、とっても幸せでした。

幸せって思いどおりに生きることなんだ。
そう確信した瞬間です。

諦めない力、好きというエネルギーの大きさ、やるという覚悟。

それらのもたらすパワーは計り知れません。

人を動かし、不可能を可能にすることだってあるのです。

どんなことにでも言えます。

負け惜しみでなく、他人がいくらあれは失敗だ、バカだ、わかってない、
ザマぁみろ、損な生き方だと言ったとしても、自分が納得していれば、
よかったと思えるならそれは成功なのです。

大成功です。

8年前、僕は38歳でした。

そして今年5月で47歳です。

「あーあ、オレももうすぐ40かぁ…」

なんて思っていたのに、40どころか気づけばもう50代がみえてきています。

あっというまでした。

時の流れは早いです。
決して時間は無限でないことを物語っています。

他人のために生きてるヒマなんてないのです。

今すぐにでも自分の人生を生きませんか?

幸せに生きるために、もう恐がるのやめませんか?

僕と一緒に嫌われましょうよ!(笑)

生きづらさの原因は、何をやってもうまくいかないのは本当に親のせい!?

●●さん こんにちは

at WILL 心理セラピストの長井啓悟です。

寒いです。

僕の住む街は今日も雪が降っています。

そういえば今日はSt.バレンタインデーなんですね。

なんかドキドキわくわくされてる方もいらっしゃるのでしょうか^^

いいですよね、ささやかでも世の中が幸せになるようなイベントは。
(メーカーやお菓子屋さんが潤うだけという夢のない話もあったりしますが^^;)

僕にはまったく関係ない話ですが(笑)

そんな中、友人たちと話す機会があり、そのときに心理と幼少期の親との関わりが話題になり、
アダルトチルドレンや生きづらさの問題を、自身の経験などを織り交ぜながら、
それぞれの視点で、様々な角度から意見を交わしてきました。

そんな機会を通じて、僕自身が感じるところを今日は本音で語ってみたいと思います。

それでは長井啓悟のメールマガジンをお届けいたします。
どうぞ最後までよろしくおつきあいください。

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生きづらさの原因は、何をやってもうまくいかないのは本当に親のせい!?
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心理学や心に関することを学んだり、カウンセリングやセラピーを受けた事のある方は、
人が大人になっても自己重要感が低かったり、生きづらさを感じるのは、
幼少期に親との関わりの中で経験したつらい出来事や心の傷が原因であるという話を
聞かれたことがあると思います。

実際、この世に生まれてから成人し、独立するまでの間、通常であれば一番長く時間を共にし、
人格形成という部分においても一番影響を受けるのは両親であることは間違いありません。

子どもというのは当然親を選んで生まれてくることはできません。
(ここではスピリチュアルな話は抜きにして進めます)

また、どんな親であれ、親の存在なしにひとりで生きていくことは不可能です。

親からどんなに厳しくされようと、暴力や虐待を受けようと、逆にまったくかまってもらえず
育児放棄のような状態にされようが、それがどんなにつらく苦痛であっても、
なんの力も持たない子どもには抵抗する術はなく、イヤでもそれを受け容れるしかありません。

不幸にも親から自分を大切に扱われなかったと思って育った子どもは、親の言うことを聞かない、
期待に応えることのできない自分は悪い子だからこんな目に遭うんだ。

お父さんやお母さんに愛されない自分は価値のない子なんだ。

親に愛されず悲しかった思いも、怒鳴られて殴られて、痛くて悔しかった思いも
全部小さな胸の奥に押し込んで、自分を責めるのです。

子どもはどこまでも健気です。

どんなにひどい目にあわされても親が大好きなのです。

そうやって親から受け取ったネガティブな価値観、セルフイメージをもったまま大人になって、
その頃封印したはずのマイナス感情が、いつまでも自分を苦しめる。

いわゆる“親からの刷り込み”のせいで、というやつです。

もちろんそれがすべてであるとは断言できませんが、自分に対する価値観、
生きづらさの根本となっていることには間違いありません。

ではやはり親が悪いのか?親のせいなのか?ということですが…

“はい悪いです”。

さきほどお話したように子どもは無抵抗です、というより抵抗の術も力も持ちません。

親がいなければ何も出来ないし生きてはいけないのです。

悲しいかな、親の腹ひとつで子どもはどうにでもなる、というかならざるをえないのです。

【親が悪いとか、親のせいとか、大切なのはそこではありません】

僕もそうでした。

中学、高校と身体も大きく成長し、力も強くなってくる頃、
親に対して強烈な反抗心を抱き、子どもの頃わかってくれなかった母への怒り、
僕の気持ちなどまったく理解せず、なにかといえば暴力で抑えつけようとしてきた
父への復讐心は凄まじいものでした。

何度も父を殴りたい、殺してやりたいとさえ思っていました。

力ではもう負けないのもわかっていました。

でもやっぱり、いくつになっても僕はこの人達の子どもでした。

最後の最後で振り上げた拳を振り下ろすことはできず、独立し家庭をもった今でさえ
どこかでまだ親の支配に甘んじている自分がいて、それをどうすることもできない自分が
とても無力で、無価値で、自分に対して無性に腹が立ったりしていました。

やがてその怒りは、こんなふうにいつまでも自分を責め、苦しまなければならないのは
あいつらのせいだ!と親のほうに向く。

そしてまたそれを必死で理性で抑え込み、また自分を責める。

そんな負のスパイラルをぐるぐると抜け出せないままに40数年生きてきました。

【親の責任を問うことよりも、自分が過去を終わらせ手放し、自分らしく生きることが大事】

そんな自分自身の経験から学んだこと、それはずっとそのまま親のせいにして生きていくか、
それとも過去と向き合い、終わらせ手放すか?

こんな自分を苦しめる厄介な価値観を持ってしまったきっかけはたしかに親かもしれません。

でもそうやって誰かのせいにして生きるのは、自分の人生を生きることを放棄するということ。

自由に思いどおりに生きるということは、目の前で起きるすべてのことを受け容れるということ。

つまり自分の思いどおりに、選択どおりに生きる以上、その人生において起こることの
すべての責任を自分でとるという覚悟が必要であるということ。

あなたが背負うことになった過酷な経験や悲しい過去は、たしかに子どもの頃に受けた
心の傷かもしれません。

しかし今、そのことで苦しんでいるのは、大人になった現在のあなたではありませんか?

たしかに子どもの頃は親に逆らうことも、どうすることも出来なかったでしょう。

でも今はそうではありません。

あなたはもう一人で生きていくことも出来れば、YES,NOを、意思表示をできる大人なのです。

親があなたに与えた望まざる価値観を、後生大事に持ち続けるか手放すかを選ぶこともできるのです。

身体は大人でも、心の中はずっと傷ついた当時の子どものままで生きていきますか?

自分の怒りや悲しみをなかったことにして、心が望んでいないのに
親を赦せと言っているのではありません。

ただ、いつまでも親のせいにするのはやめて、これは自分の問題なんだと受け容れ、
自分と向き合い過去を癒し、手放すことで本当に自分らしく、
心から望む人生を生きるという選択をするのか?ということ。

それを私たちは選べるのです。

僕は心理という学びを通じ、そのことに気づきました。

とはいえ、僕もまだまだ完全に手放せてはいません。

感情が揺り戻され、怒りが全身を覆いどうしようもない苦しさに苛まれることもあります。

もちろんそのときは苦しいです。

今からあのときの恨みを晴らしに親のところへ乗り込んでやろうか!?

そんな気持ちになってしまうこともありますが、親のせいにして怒りを外側に向けても
何も解決しない、自分の問題であることを受け容れ、向き合う。

そうしない限りなにも終わらないし始まらない、自分の望む人生など一生歩めない。

「誰のせいか」ということよりも、そのことを大切に考えてほしいのです。

一時的に親のせいにして自分自身が感じている感情や生きづらさから目をそらしても
結局は自分に還ってくる。

本当に大切で必要なのは、それら自分の人生で起こるすべてのことは
自分自身の問題であるということをちゃんと理解して受け容れ、
向き合っていくことだということを。

もし、心から現状を変えたい、生きづらさから自分を解放し、望む未来を創造したいと
心から願うのであれば。

ではまた。
最後までお読みいただき本当にありがとうございました。

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『編集後記』
今回のメールマガジンいかがでしたか?

「あなたがこんなふうに苦しんでいるのは親の刷り込みのせいです」
心理セラピストやカウンセラー、心理系の本なんかではよくそう言われるけど
それって本当に親のせいなのかな?

友人のそんな一言が、しばらく僕の頭から胸から離れませんでした。

そうだ、親子の問題は誰のせいか犯人探しをすることではない。

そこから受け取った親の価値観や生きづらさやから
苦しんでいる本人が解放されることが大切なんだ。

そして自分が自分らしく本当に望む人生を歩いていけることが大切なんだ。

そんな思いをとても強くしました。

心理セラピストは、いえ、少なくとも僕のセラピストとしての在り方はそうなんだと。

いつまでも親が悪いとか、親のせいだとか言う部分ばかりに共感し、ハグまでして
それでいいいんだよ、あなたは悪くないんだよだけで終わってしまうような残念な
セラピストやカウンセラーもいるようですが…。

結局向き合うことを遠ざけ、依存を助長してしまうような存在になるつもりはない。

僕が心理セラピストを志した原点に立ち戻り、自分の腹が決まる瞬間でもありました。

志のある人たちと交わり、言葉を交わすほど有意義なことはありません。

人に恵まれている僕はとてもしあわせであることを知り、
感謝を学ぶいい機会にも恵まれました。

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メールマガジンの感想などをいただけるととても嬉しいし励みにもなります。
このメールにご返信いただければけっこうですので、楽しみにお待ちいたしております。

それから。。。
僕のコラムを読んでいただいたことはありますか?
読んでくださった方、いかがだったでしょう?

本日のメルマガとリンクする内容のコラムを書いています。

まだお読みいただいていない方はよろしければ
こちらからご覧いただけます。

そちらの感想やご意見もお待ちしております。

感想やご意見をいただいた方には、お時間をいただくかもしれませんが、
必ずお返事させていただきますね!

風邪をひいたり体調が悪くなると落ち着かなくなり、罪悪感をおぼえるのです。

●●さん こんにちは

at WILL 心理セラピストの長井啓悟です。

2月に入り、まだまだ寒い日が続いていますが、体調を崩されていませんか?

実は僕はここ10日ほどずっと調子が悪く、ピークこそ過ぎましたが発熱と胃腸の具合が悪く、
おそらく風邪だったのだと思うのですがとてもつらい日が続いていました。

おかげさまで今はかなり回復し、元気にこのメルマガを書いておりますが。

そんな体調を崩していたなかで感じていたことを、僕の子どもの頃の経験を織り交ぜながら
お話していきたいと思います。

それでは長井啓悟のメールマガジンをお届けいたします。
どうぞ最後までよろしくおつきあいください。

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風邪をひくと、体調が悪くなると落ち着かなくなり、罪悪感をおぼえるのです。
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最初のご挨拶の中でもお話しましたが、この何日か発熱と嘔吐、胃腸の不快で
きつい日が続いていました。

職業柄、風邪などひいてもなかなか休めないということもあり、ここ数年は本当に体調管理には
気を配っていたのですが、
妻や子供も風邪を引いていたのもあってか、とうとう自分にもうれしくない順番が
回ってきたような感じでした。

背中や関節がゾクゾクしてつらい状況の中、なぜかそのとき僕は、なんとも落ち着かないというか、
「罪悪感」のようなものを感じていたのです。

この感じ、ずっと昔に感じたなんとも居心地の悪い感覚。

思い出しました。

小学生の頃、僕は熱を出しては小児科へ行き、点滴を打っては学校を休むということが
少なくありませんでした。

一度発熱すると、39度以上の高熱が続き、その度に母親は僕を病院へ連れて行ったり
看病や何かできっと大変だったのだろうと思います。

僕の実家は自営で父が会社を経営していたので、母はその手伝いや家事、妹や弟の世話もあり
けっこう時間に追われる生活をしていたように記憶しています。

そんなことも手伝ってか、母は僕が熱を出したり、病気になると、ダラダラしてるからだの、
弱い子だの、手がかかるだの、世話ばっかりかけてもう知らんだの言っては、
もの凄く怒るようになったのです。

それ以降、僕は体調が悪くなるととても不安になり、熱が出てきたりすると怒られるのがいやで
母にそれをなかなか言い出せず、自分の身体の心配より、母にバレないように懸命でした。

でもやっぱりどこか様子がおかしいので気づくのでしょう。

「またあんたは熱出して!」

といって怒鳴られ、僕はただ力なく母にごめんなさいと謝るしかありませんでした。

「なんで病気になって怒られなきゃならないんだよ。」

大人になった今でこそ思いますが、当時は、すぐに熱を出す自分がとても不甲斐ないのと、
キーキー怒る母を見て、熱をだしてお母さんに迷惑をかけている僕は悪い子だと、
ここまで母を怒らせる自分をとても責めていたのを鮮明に覚えています。

一番悲しかったのは、僕は小学校の2年生か3年生の頃におたふく風邪にかかってしまい、
病院の先生からしっかり治しておかないと後々たいへんだからと言われたことがありました。

けど学校を休んでいるあいだもずっと母に鬱陶しいだの早く学校へ行けだの言われるのがとても
イヤで、薬がなくなるタイミングで、もう大丈夫と言い、学校へ行ったのですね。

そしたら数日後なんだかまた身体がだるい、あごの下のリンパ腺が腫れて痛い…

さすがにぶり返したとは口が裂けても言えず、しんどいのも顔の腫れも必死で隠し、
数日間、学校でも体調不良を悟られないよう、自力で治したこともありました。

本当にあれはつらかったですね、とても心細かったのを覚えています。

だからあまり病院へも行かず、人知れず自力で治そうとしてしまうところがあるのかもしれません。

その頃からなんですね。

僕は大人になった今でも、体調が悪くなって熱が出たりすると
とても落ち着かなくなって、罪悪感を覚えるようになっていたのです。

いよいよ自力では無理というところまでいかないと病院にも行かないのです。

これ、軽い風邪くらいならまだしも、万一大きな病気をしたときなんかを考えると案外深刻な
心の習性かもしれません。

人間の生存に関わる部分でもありますからね。

それだけならまだいいのですが…

僕は家族の誰かが風邪をひいたりするととても不機嫌になります。

普通は心配するところでしょう?

いや、ほとんどの方がそう思われると思います。

でも僕は、風邪なんかひきやがって、オレに染ったらどうしてくれるんだ、風邪なんかひくのは
気がゆるんでるからだ。

とくに妻に対してはそんなふうに思ってしまうのです。

とても変な表現ですが、僕は子供の頃、おちおち風邪なんてひけなかったんだ、
お母さんに叱られるのがイヤで病気なんて出来なかったんだ。

そんなふうに感じている子供の頃の僕が、大人になった僕の心の奥で、
叫んでいるのを感じる瞬間です。

だから平気で風邪を引いた、しんどいって言える人が許せないのでしょう。

僕が言えなかったことをあたりまえに言える人が信じられないような、うらやましいような、
複雑な思いになるのでしょうね。

自分もそう言いたかったのに言えなかった、目の前の人にその感情をぶつけてしまっているのです。

「すぐに風邪ばかりひいて、熱を出すような子はうちの子じゃない、橋の下へ帰れ。」

母に言われた言葉のとげが、僕の心に刺さったままで今も抜けないままに残っています。

母も忙しかったし、時間に追われ、家事に子育てに大変だったのでしょう。

父も頑固で短気でワンマンな人でしたからね、気遣いでストレスもあったのでしょう。

でも、子供なんて成長の過程で、なんだかんだ病気にかかるのもあたりまえです。

風邪だってそんな家庭の事情まで考慮して感染してくれません。

子供ってそういう自分が弱っていて、とても自分ではどうしようもないときに、
母に看病してもらったりする中で、安心を覚えたり、愛情を感じるものではないのでしょうか?

大切なことだと思うのです。

最近は親が子供を虐待するなんていうニュースも、悲しいかなめずらしくなくなってきています。

そういうことをしてしまう今の親って、子供の頃に親からちゃんと愛された経験がない、または希薄なのではないかと思います。

愛されている、守られている、僕はわたしはちゃんと愛されている、
生きていてもいいんだ、価値ある存在なんだという確信をもてずに育ったということが
云えるのではないでしょうか?

子供は決してひとりでは生きていけないのです。

風邪引いて熱が出てしんどいときって、子供はとっても不安で心細いものなんですよ。

「大丈夫」って心配してほしいのです。

「風邪をひくような、熱を出すような、親に迷惑をかけるような子は価値がない。」

そんな価値観を母からもらった僕は、風邪をひくことは悪いこと、風邪引くような人は悪い人、
というとても理不尽な刷り込みが出来てしまっていたのです。

その理不尽を知らず知らずに妻に押しつけているのですね。

うちにも4歳の子がいますが、この子が熱とか出すとたちまち仕事の予定などに影響があり、
つい当時の僕の母のような気持ちになりそうなときにハッとっします。

自分と同じような思いを子供にさせないのが僕の使命。

それが僕の願いであり、望みでもあります。

子供にとって必要な愛情と安心を親がちゃんと与えること。

このあたりまえのことがどれだけ子供のその後に影響を及ぼすかということを
現在子育て中の方も、これから親となられる方にも知っていただけたらと思うのです。

ではまた。
最後までお読みいただき本当にありがとうございました。

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『編集後記』
今回のメールマガジンいかがでしたか?

大人が何気なく発している言葉を、子供はとても重く受けとめます。

何の気なしに云った一言を、子供はずっと覚えているものです。

僕の4歳の娘が不意打ちのように「パパ、まえにこんなこといってたよね?」
って問いかけられてドキッとするようなことは多々あります。

「パパだいすき」

「いっしょにおしゃしんとって」

そういって抱きついてくるわが子の笑顔が本物の笑顔か?

親の顔色をうかがっているのでは?

と、不安になる瞬間もあります。

体調が悪いのに親にそれを言えない、我慢しなければならない。

子どもにとってそれほど不安で理不尽なことってありません。

生きていることを、自分が存在することを否定されていることと同じですからね。

親はなにがあっても、どんなときも、子供の存在を全力で肯定してあげること。

今回体調を崩したことがきっかけで、そんな思いを強くしたことは、
僕にとって怪我の功名です。

そして母からもらって後生大事にしていた不要な価値観、
刷り込みを手放すというテーマも新たにみつかりました^^;

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今回の僕のメールマガジンはいかがだったでしょうか?

感想などをいただけるととても嬉しいし励みにもなります。
このメールにご返信いただければけっこうですので、楽しみにお待ちいたしております。

それから。。。
僕のコラムを読んでいただいたことはありますか?
読んでくださった方、いかがだったでしょう?

まだお読みいただいていない方はよろしければ
こちらからご覧いただけます。


そちらの感想やご意見もお待ちしております。

感想やご意見をいただいた方には、お時間をいただくかもしれませんが、
必ずお返事させていただきますね!