カテゴリー別アーカイブ: バックナンバー

幸せな生き方ってどんな生き方ですか?

こんにちは、長井啓悟です。

先日、号外という形でバックナンバー公開のお知らせを
メルマガで配信させていただきました。

今回でまだ9回目の配信ではありますが、メルマガを始めてまだ2ヵ月も経ちませんが
少しづつではありますが着実に購読者の方が増え続けていることはとても励みにもなり、
よい緊張感を保つモチベーションにもなっています。

なにより「バックナンバーは見れないのですか?」というご要望を
何人かの読者様からいただけたのは本当にありがたく、とてもうれしいことです。

毎回、こんなの読んでもらえるのだろうか?
こんな稚拙な切り口で人の心になにを訴えられるのだろうか?

そんなことを考えたりすることも少なからずあります。

自問自答を繰り返しながらもみなさんにお届けしている
僕の拙い文章を読んでくれている人がいる。

向上心と感謝を忘れずに、これからも読者の方それぞれに
なにかを感じていただけるような記事を書いていければと気持ちを新たにしています。

これからもどうぞよろしくお願いします。

それでは長井啓悟のメールマガジン、最後までよろしくおつきあいください。

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幸せな生き方ってどんな生き方ですか?
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「幸せな人生とか、幸せな生き方ってどんなものですか?」

「そもそも幸せってなんですか?」

「自分が幸せかどうかよくわからないんですけど」

「仕事もそこそこ、収入もそこそこ、それなりに評価もされてるのに
なぜか満たされない…」

そんなふうに云う人は少なくありません。

僕もそうだったのですが、幸せってとても特別なもので、
非日常な体験や時間を過ごすことだったり、何かを手に入れることのように
考えてしまいがちですが決してそうではありません。

よく云われることですが、日常の何気ない、一見当たり前のようなことが
実は特別なことであり、幸せであるということ。

帰る家がある、あたたかい家族がある、毎日3度の食事が摂れる、
毎日風呂に入れてフトンで寝れて・・・

数え上げたらきりがないくらい、日常、私たちの周りには幸せがたくさん溢れています。

意識の向く方向、見ている先が変わるだけで、
私たちはいくらでも自分が幸せであることに気づき、それを感じることができるのです。

心が自由で、制限の少ない人ほど、ささいなことに幸せを見出すものです。

そう、幸せを感じられる人に「当たり前のこと」は存在しません。

すべてが特別で、周りのすべてに素直に感謝できる人です。

それはどういうことかというと、心が自由な人は感じる力が豊かです。

感じることに制限をかけていないから、あらゆる事象に対して発想も受け取り方も自由です。

そう、受け取り上手な人も多いですね。

つまり「これはこういうものだ」とか「こうでなければならない」だったり
「そうでなければおかしい」といった固定観念や常識に縛られていないからです。

「ねばならない」

「べき」

という考えに支配されていないからです。

一方、子どもの頃からこうしなさい、ああしなさい、こんなふうになりなさいと、
親の価値観をおしつけられて育ってきた人は、自分の意思で、心で目で、
ものごとを見たり判断したりということが出来ない人が多いです。

親の価値観をそのまま自分のものとして、自らを型にはめた生き方をしている人は、
親が奇麗だと云ったものを綺麗と云い、親が素晴らしいと云ったものを素晴らしいと思う。

親が価値があると云うものに価値を感じ、価値がないと云うものには価値を感じない。

というより感じてはいけない、自らの価値観など持ってはいけないと
信じてしまっている人は決して少なくありません。

関口さんは美しい花をみて、素直に「美しい」と言葉にすることができますか?

周りのほとんどの人がそんなに綺麗かな?と言っていても「綺麗だ」と言えますか?

では親や、あなたより目上の人や、お世話になっている人が
あなたと違う意見だったとき「私はそうは思いません」とはっきり言えますか?

生きづらさを訴える人と話していると、
「言ってはいけない」「感じてはいけない」「思ってはいけない」
究極「自分であってはいけない」
そんな生き方を選択している人がとても多いように感じます。

【自分の心に、感覚に響くもの、これだと思うものを信じ従う】

僕は思うのです。

自分で見て、触れて、感じるままを受け取り、その思いに正直に生きる。

それこそが幸せな生き方ではないのでしょうか?

誰かのために価値観を歪める必要がありますか?

だってあなたはあなたであり、僕は僕であり、あなたも僕も自分のために
自分の人生を生きているのです。

大袈裟でもなんでもなく、自分の生き方や在り方に少しでも疑問を感じている人は、
自分は誰の人生を生きているのか?ちゃんと自分の人生を生きているか?
今一度ご自身に問いかけてみてください。

そして何か違うと感じたり、違和感を感じるのであれば、
軌道修正されることをおすすめします。

僕でよければいつでもご相談ください。
僕はそのために心のセラピストとして活動しています。

自分で生きていけない子どもならいざ知らず、僕たちはもう成人し、
自分で選択し、自らの力で生きていける立派な大人なんです。

どんなに親の云うとおりの生き方を選択し、大人になってまた上司や周りの人たちの
価値観を優先し、云われるがままに生きることで選ばれ、認められたとしても、
もしそれで生きづらさを感じ、満たされない思いを抱えているとしたら、
それは自分の人生でもなければ幸せな生き方でもなく、ただ人に決めてもらう、
支配される人生を生きているに過ぎません。

端から見て本当に幸せそうに生きている人は、
自分で自分の価値をちゃんとわかっています。

他人に自分の評価を求めたりしませんし、人から認められようとか、
そのために人に気に入られるための行動をとったり、ときに誰かを陥れたり、
金銭的、物質的な成功や権威をまとうことを求めたりしないものです。

自分は人から見てどのように映っているのだろうか?正しいのだろうか?
まちがっていないだろうか?などと自分を疑ったり、
責めたりするようなことはしないのです。

たとえばどんなに周りから、あなたは優秀です、素晴らしいですと評価され
認められたとしても、それが周りや評価してくれる人の期待に添うために
発言したり行動したりした結果であれば、果たして本当にそれは本人にとっての
幸せであると云えるでしょうか?

だったらなぜ自分の中で言いようのない窮屈さを感じたりするのでしょう?

僕は自分の中の過去と対峙したとき、自分で選べなかったことやできなかったこと、
親や周りに屈して自分の思いを遂げられなかったことに、
とても感情を揺さぶれることに気づきます。

【悔いを遺さない、他人に委ねない、自分に誠実でいること】

この先幸せに生きたいと願うのであれば後悔をしないこと。

誰かのための選択、他人の価値観の優先をしないこと。

そのためには最初から正直に、素直に、自分に対して誠実な選択をすることです。

誰かの期待に応えられなかったり、嫌われたり、離れられたりすることは
たしかにつらいことかもしれません。

しかしそれらは長い人生のほんの一部であり、一瞬の出来事に過ぎません。

そんな一時的な痛みをさけるために、自分という存在を自分で否定してしまうほど
本末顛倒なことはありません。

どんなに周りに評価され認められても、求められても、その生き方が、在り方が、
自分が心から望むものでなければ、僕は、僕だったらまちがいなく不幸です。

心から幸せであると実感して生きたいのであれば、それまで信じて疑うことのなかった
親や他人からもらった価値観を手放すこと。

仕事、環境、人間関係など、その過程で起こる別れもまた、
あなたが自由で幸せに生きるために手放す必要があるもののひとつに過ぎません。

恐れずに自分の心の声に誠実であること。

幸せの大きさとは、自分で自分のことをどれだけ大切に出来ているかに比例する。

僕はそう思うのです。

ではまた。
最後までお読みいただき本当にありがとうございました。

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『編集後記』
関口さん、今回のメールマガジンいかがでしたか?

私事ではありますが、僕が経営しているリラクゼーションのお店が
この2月で開業8周年を迎えさせていただきました。

開業前、周りからは、こんな不景気な時代にやめとけだったり、
おまえなんかに絶対無理、3年もったら認めてやるわなど
けっこう辛辣なことを云われたり、反対されたりしたものです。

資金的にも潤沢であったわけでもない、決して順風満帆でない状態で
スタートしたお店でしたが、地域のお客様、頑張れと応援してくださった
方々に支えられての8年間だっただけに感慨深いものがあります。

今も決していいことばかりではありません。

むしろ苦しいことのほうが多いかもしれません。

でも振り返れば、ただ人を癒す仕事が好きで、やりたくて、その一心で
始めたこと。

思いというエネルギーに妥協せず、躊躇せず突っ走れたことは、僕にとって
経済的、物質的成功よりも大きな成功であり財産であると信じて疑いません。

出来上がったお店を見たとき、初めてお客様がいらしたとき、とっても幸せでした。

幸せって思いどおりに生きることなんだ。
そう確信した瞬間です。

諦めない力、好きというエネルギーの大きさ、やるという覚悟。

それらのもたらすパワーは計り知れません。

人を動かし、不可能を可能にすることだってあるのです。

どんなことにでも言えます。

負け惜しみでなく、他人がいくらあれは失敗だ、バカだ、わかってない、
ザマぁみろ、損な生き方だと言ったとしても、自分が納得していれば、
よかったと思えるならそれは成功なのです。

大成功です。

8年前、僕は38歳でした。

そして今年5月で47歳です。

「あーあ、オレももうすぐ40かぁ…」

なんて思っていたのに、40どころか気づけばもう50代がみえてきています。

あっというまでした。

時の流れは早いです。
決して時間は無限でないことを物語っています。

他人のために生きてるヒマなんてないのです。

今すぐにでも自分の人生を生きませんか?

幸せに生きるために、もう恐がるのやめませんか?

僕と一緒に嫌われましょうよ!(笑)

生きづらさの原因は、何をやってもうまくいかないのは本当に親のせい!?

●●さん こんにちは

at WILL 心理セラピストの長井啓悟です。

寒いです。

僕の住む街は今日も雪が降っています。

そういえば今日はSt.バレンタインデーなんですね。

なんかドキドキわくわくされてる方もいらっしゃるのでしょうか^^

いいですよね、ささやかでも世の中が幸せになるようなイベントは。
(メーカーやお菓子屋さんが潤うだけという夢のない話もあったりしますが^^;)

僕にはまったく関係ない話ですが(笑)

そんな中、友人たちと話す機会があり、そのときに心理と幼少期の親との関わりが話題になり、
アダルトチルドレンや生きづらさの問題を、自身の経験などを織り交ぜながら、
それぞれの視点で、様々な角度から意見を交わしてきました。

そんな機会を通じて、僕自身が感じるところを今日は本音で語ってみたいと思います。

それでは長井啓悟のメールマガジンをお届けいたします。
どうぞ最後までよろしくおつきあいください。

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生きづらさの原因は、何をやってもうまくいかないのは本当に親のせい!?
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心理学や心に関することを学んだり、カウンセリングやセラピーを受けた事のある方は、
人が大人になっても自己重要感が低かったり、生きづらさを感じるのは、
幼少期に親との関わりの中で経験したつらい出来事や心の傷が原因であるという話を
聞かれたことがあると思います。

実際、この世に生まれてから成人し、独立するまでの間、通常であれば一番長く時間を共にし、
人格形成という部分においても一番影響を受けるのは両親であることは間違いありません。

子どもというのは当然親を選んで生まれてくることはできません。
(ここではスピリチュアルな話は抜きにして進めます)

また、どんな親であれ、親の存在なしにひとりで生きていくことは不可能です。

親からどんなに厳しくされようと、暴力や虐待を受けようと、逆にまったくかまってもらえず
育児放棄のような状態にされようが、それがどんなにつらく苦痛であっても、
なんの力も持たない子どもには抵抗する術はなく、イヤでもそれを受け容れるしかありません。

不幸にも親から自分を大切に扱われなかったと思って育った子どもは、親の言うことを聞かない、
期待に応えることのできない自分は悪い子だからこんな目に遭うんだ。

お父さんやお母さんに愛されない自分は価値のない子なんだ。

親に愛されず悲しかった思いも、怒鳴られて殴られて、痛くて悔しかった思いも
全部小さな胸の奥に押し込んで、自分を責めるのです。

子どもはどこまでも健気です。

どんなにひどい目にあわされても親が大好きなのです。

そうやって親から受け取ったネガティブな価値観、セルフイメージをもったまま大人になって、
その頃封印したはずのマイナス感情が、いつまでも自分を苦しめる。

いわゆる“親からの刷り込み”のせいで、というやつです。

もちろんそれがすべてであるとは断言できませんが、自分に対する価値観、
生きづらさの根本となっていることには間違いありません。

ではやはり親が悪いのか?親のせいなのか?ということですが…

“はい悪いです”。

さきほどお話したように子どもは無抵抗です、というより抵抗の術も力も持ちません。

親がいなければ何も出来ないし生きてはいけないのです。

悲しいかな、親の腹ひとつで子どもはどうにでもなる、というかならざるをえないのです。

【親が悪いとか、親のせいとか、大切なのはそこではありません】

僕もそうでした。

中学、高校と身体も大きく成長し、力も強くなってくる頃、
親に対して強烈な反抗心を抱き、子どもの頃わかってくれなかった母への怒り、
僕の気持ちなどまったく理解せず、なにかといえば暴力で抑えつけようとしてきた
父への復讐心は凄まじいものでした。

何度も父を殴りたい、殺してやりたいとさえ思っていました。

力ではもう負けないのもわかっていました。

でもやっぱり、いくつになっても僕はこの人達の子どもでした。

最後の最後で振り上げた拳を振り下ろすことはできず、独立し家庭をもった今でさえ
どこかでまだ親の支配に甘んじている自分がいて、それをどうすることもできない自分が
とても無力で、無価値で、自分に対して無性に腹が立ったりしていました。

やがてその怒りは、こんなふうにいつまでも自分を責め、苦しまなければならないのは
あいつらのせいだ!と親のほうに向く。

そしてまたそれを必死で理性で抑え込み、また自分を責める。

そんな負のスパイラルをぐるぐると抜け出せないままに40数年生きてきました。

【親の責任を問うことよりも、自分が過去を終わらせ手放し、自分らしく生きることが大事】

そんな自分自身の経験から学んだこと、それはずっとそのまま親のせいにして生きていくか、
それとも過去と向き合い、終わらせ手放すか?

こんな自分を苦しめる厄介な価値観を持ってしまったきっかけはたしかに親かもしれません。

でもそうやって誰かのせいにして生きるのは、自分の人生を生きることを放棄するということ。

自由に思いどおりに生きるということは、目の前で起きるすべてのことを受け容れるということ。

つまり自分の思いどおりに、選択どおりに生きる以上、その人生において起こることの
すべての責任を自分でとるという覚悟が必要であるということ。

あなたが背負うことになった過酷な経験や悲しい過去は、たしかに子どもの頃に受けた
心の傷かもしれません。

しかし今、そのことで苦しんでいるのは、大人になった現在のあなたではありませんか?

たしかに子どもの頃は親に逆らうことも、どうすることも出来なかったでしょう。

でも今はそうではありません。

あなたはもう一人で生きていくことも出来れば、YES,NOを、意思表示をできる大人なのです。

親があなたに与えた望まざる価値観を、後生大事に持ち続けるか手放すかを選ぶこともできるのです。

身体は大人でも、心の中はずっと傷ついた当時の子どものままで生きていきますか?

自分の怒りや悲しみをなかったことにして、心が望んでいないのに
親を赦せと言っているのではありません。

ただ、いつまでも親のせいにするのはやめて、これは自分の問題なんだと受け容れ、
自分と向き合い過去を癒し、手放すことで本当に自分らしく、
心から望む人生を生きるという選択をするのか?ということ。

それを私たちは選べるのです。

僕は心理という学びを通じ、そのことに気づきました。

とはいえ、僕もまだまだ完全に手放せてはいません。

感情が揺り戻され、怒りが全身を覆いどうしようもない苦しさに苛まれることもあります。

もちろんそのときは苦しいです。

今からあのときの恨みを晴らしに親のところへ乗り込んでやろうか!?

そんな気持ちになってしまうこともありますが、親のせいにして怒りを外側に向けても
何も解決しない、自分の問題であることを受け容れ、向き合う。

そうしない限りなにも終わらないし始まらない、自分の望む人生など一生歩めない。

「誰のせいか」ということよりも、そのことを大切に考えてほしいのです。

一時的に親のせいにして自分自身が感じている感情や生きづらさから目をそらしても
結局は自分に還ってくる。

本当に大切で必要なのは、それら自分の人生で起こるすべてのことは
自分自身の問題であるということをちゃんと理解して受け容れ、
向き合っていくことだということを。

もし、心から現状を変えたい、生きづらさから自分を解放し、望む未来を創造したいと
心から願うのであれば。

ではまた。
最後までお読みいただき本当にありがとうございました。

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『編集後記』
今回のメールマガジンいかがでしたか?

「あなたがこんなふうに苦しんでいるのは親の刷り込みのせいです」
心理セラピストやカウンセラー、心理系の本なんかではよくそう言われるけど
それって本当に親のせいなのかな?

友人のそんな一言が、しばらく僕の頭から胸から離れませんでした。

そうだ、親子の問題は誰のせいか犯人探しをすることではない。

そこから受け取った親の価値観や生きづらさやから
苦しんでいる本人が解放されることが大切なんだ。

そして自分が自分らしく本当に望む人生を歩いていけることが大切なんだ。

そんな思いをとても強くしました。

心理セラピストは、いえ、少なくとも僕のセラピストとしての在り方はそうなんだと。

いつまでも親が悪いとか、親のせいだとか言う部分ばかりに共感し、ハグまでして
それでいいいんだよ、あなたは悪くないんだよだけで終わってしまうような残念な
セラピストやカウンセラーもいるようですが…。

結局向き合うことを遠ざけ、依存を助長してしまうような存在になるつもりはない。

僕が心理セラピストを志した原点に立ち戻り、自分の腹が決まる瞬間でもありました。

志のある人たちと交わり、言葉を交わすほど有意義なことはありません。

人に恵まれている僕はとてもしあわせであることを知り、
感謝を学ぶいい機会にも恵まれました。

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メールマガジンの感想などをいただけるととても嬉しいし励みにもなります。
このメールにご返信いただければけっこうですので、楽しみにお待ちいたしております。

それから。。。
僕のコラムを読んでいただいたことはありますか?
読んでくださった方、いかがだったでしょう?

本日のメルマガとリンクする内容のコラムを書いています。

まだお読みいただいていない方はよろしければ
こちらからご覧いただけます。

そちらの感想やご意見もお待ちしております。

感想やご意見をいただいた方には、お時間をいただくかもしれませんが、
必ずお返事させていただきますね!

風邪をひいたり体調が悪くなると落ち着かなくなり、罪悪感をおぼえるのです。

●●さん こんにちは

at WILL 心理セラピストの長井啓悟です。

2月に入り、まだまだ寒い日が続いていますが、体調を崩されていませんか?

実は僕はここ10日ほどずっと調子が悪く、ピークこそ過ぎましたが発熱と胃腸の具合が悪く、
おそらく風邪だったのだと思うのですがとてもつらい日が続いていました。

おかげさまで今はかなり回復し、元気にこのメルマガを書いておりますが。

そんな体調を崩していたなかで感じていたことを、僕の子どもの頃の経験を織り交ぜながら
お話していきたいと思います。

それでは長井啓悟のメールマガジンをお届けいたします。
どうぞ最後までよろしくおつきあいください。

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風邪をひくと、体調が悪くなると落ち着かなくなり、罪悪感をおぼえるのです。
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最初のご挨拶の中でもお話しましたが、この何日か発熱と嘔吐、胃腸の不快で
きつい日が続いていました。

職業柄、風邪などひいてもなかなか休めないということもあり、ここ数年は本当に体調管理には
気を配っていたのですが、
妻や子供も風邪を引いていたのもあってか、とうとう自分にもうれしくない順番が
回ってきたような感じでした。

背中や関節がゾクゾクしてつらい状況の中、なぜかそのとき僕は、なんとも落ち着かないというか、
「罪悪感」のようなものを感じていたのです。

この感じ、ずっと昔に感じたなんとも居心地の悪い感覚。

思い出しました。

小学生の頃、僕は熱を出しては小児科へ行き、点滴を打っては学校を休むということが
少なくありませんでした。

一度発熱すると、39度以上の高熱が続き、その度に母親は僕を病院へ連れて行ったり
看病や何かできっと大変だったのだろうと思います。

僕の実家は自営で父が会社を経営していたので、母はその手伝いや家事、妹や弟の世話もあり
けっこう時間に追われる生活をしていたように記憶しています。

そんなことも手伝ってか、母は僕が熱を出したり、病気になると、ダラダラしてるからだの、
弱い子だの、手がかかるだの、世話ばっかりかけてもう知らんだの言っては、
もの凄く怒るようになったのです。

それ以降、僕は体調が悪くなるととても不安になり、熱が出てきたりすると怒られるのがいやで
母にそれをなかなか言い出せず、自分の身体の心配より、母にバレないように懸命でした。

でもやっぱりどこか様子がおかしいので気づくのでしょう。

「またあんたは熱出して!」

といって怒鳴られ、僕はただ力なく母にごめんなさいと謝るしかありませんでした。

「なんで病気になって怒られなきゃならないんだよ。」

大人になった今でこそ思いますが、当時は、すぐに熱を出す自分がとても不甲斐ないのと、
キーキー怒る母を見て、熱をだしてお母さんに迷惑をかけている僕は悪い子だと、
ここまで母を怒らせる自分をとても責めていたのを鮮明に覚えています。

一番悲しかったのは、僕は小学校の2年生か3年生の頃におたふく風邪にかかってしまい、
病院の先生からしっかり治しておかないと後々たいへんだからと言われたことがありました。

けど学校を休んでいるあいだもずっと母に鬱陶しいだの早く学校へ行けだの言われるのがとても
イヤで、薬がなくなるタイミングで、もう大丈夫と言い、学校へ行ったのですね。

そしたら数日後なんだかまた身体がだるい、あごの下のリンパ腺が腫れて痛い…

さすがにぶり返したとは口が裂けても言えず、しんどいのも顔の腫れも必死で隠し、
数日間、学校でも体調不良を悟られないよう、自力で治したこともありました。

本当にあれはつらかったですね、とても心細かったのを覚えています。

だからあまり病院へも行かず、人知れず自力で治そうとしてしまうところがあるのかもしれません。

その頃からなんですね。

僕は大人になった今でも、体調が悪くなって熱が出たりすると
とても落ち着かなくなって、罪悪感を覚えるようになっていたのです。

いよいよ自力では無理というところまでいかないと病院にも行かないのです。

これ、軽い風邪くらいならまだしも、万一大きな病気をしたときなんかを考えると案外深刻な
心の習性かもしれません。

人間の生存に関わる部分でもありますからね。

それだけならまだいいのですが…

僕は家族の誰かが風邪をひいたりするととても不機嫌になります。

普通は心配するところでしょう?

いや、ほとんどの方がそう思われると思います。

でも僕は、風邪なんかひきやがって、オレに染ったらどうしてくれるんだ、風邪なんかひくのは
気がゆるんでるからだ。

とくに妻に対してはそんなふうに思ってしまうのです。

とても変な表現ですが、僕は子供の頃、おちおち風邪なんてひけなかったんだ、
お母さんに叱られるのがイヤで病気なんて出来なかったんだ。

そんなふうに感じている子供の頃の僕が、大人になった僕の心の奥で、
叫んでいるのを感じる瞬間です。

だから平気で風邪を引いた、しんどいって言える人が許せないのでしょう。

僕が言えなかったことをあたりまえに言える人が信じられないような、うらやましいような、
複雑な思いになるのでしょうね。

自分もそう言いたかったのに言えなかった、目の前の人にその感情をぶつけてしまっているのです。

「すぐに風邪ばかりひいて、熱を出すような子はうちの子じゃない、橋の下へ帰れ。」

母に言われた言葉のとげが、僕の心に刺さったままで今も抜けないままに残っています。

母も忙しかったし、時間に追われ、家事に子育てに大変だったのでしょう。

父も頑固で短気でワンマンな人でしたからね、気遣いでストレスもあったのでしょう。

でも、子供なんて成長の過程で、なんだかんだ病気にかかるのもあたりまえです。

風邪だってそんな家庭の事情まで考慮して感染してくれません。

子供ってそういう自分が弱っていて、とても自分ではどうしようもないときに、
母に看病してもらったりする中で、安心を覚えたり、愛情を感じるものではないのでしょうか?

大切なことだと思うのです。

最近は親が子供を虐待するなんていうニュースも、悲しいかなめずらしくなくなってきています。

そういうことをしてしまう今の親って、子供の頃に親からちゃんと愛された経験がない、または希薄なのではないかと思います。

愛されている、守られている、僕はわたしはちゃんと愛されている、
生きていてもいいんだ、価値ある存在なんだという確信をもてずに育ったということが
云えるのではないでしょうか?

子供は決してひとりでは生きていけないのです。

風邪引いて熱が出てしんどいときって、子供はとっても不安で心細いものなんですよ。

「大丈夫」って心配してほしいのです。

「風邪をひくような、熱を出すような、親に迷惑をかけるような子は価値がない。」

そんな価値観を母からもらった僕は、風邪をひくことは悪いこと、風邪引くような人は悪い人、
というとても理不尽な刷り込みが出来てしまっていたのです。

その理不尽を知らず知らずに妻に押しつけているのですね。

うちにも4歳の子がいますが、この子が熱とか出すとたちまち仕事の予定などに影響があり、
つい当時の僕の母のような気持ちになりそうなときにハッとっします。

自分と同じような思いを子供にさせないのが僕の使命。

それが僕の願いであり、望みでもあります。

子供にとって必要な愛情と安心を親がちゃんと与えること。

このあたりまえのことがどれだけ子供のその後に影響を及ぼすかということを
現在子育て中の方も、これから親となられる方にも知っていただけたらと思うのです。

ではまた。
最後までお読みいただき本当にありがとうございました。

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『編集後記』
今回のメールマガジンいかがでしたか?

大人が何気なく発している言葉を、子供はとても重く受けとめます。

何の気なしに云った一言を、子供はずっと覚えているものです。

僕の4歳の娘が不意打ちのように「パパ、まえにこんなこといってたよね?」
って問いかけられてドキッとするようなことは多々あります。

「パパだいすき」

「いっしょにおしゃしんとって」

そういって抱きついてくるわが子の笑顔が本物の笑顔か?

親の顔色をうかがっているのでは?

と、不安になる瞬間もあります。

体調が悪いのに親にそれを言えない、我慢しなければならない。

子どもにとってそれほど不安で理不尽なことってありません。

生きていることを、自分が存在することを否定されていることと同じですからね。

親はなにがあっても、どんなときも、子供の存在を全力で肯定してあげること。

今回体調を崩したことがきっかけで、そんな思いを強くしたことは、
僕にとって怪我の功名です。

そして母からもらって後生大事にしていた不要な価値観、
刷り込みを手放すというテーマも新たにみつかりました^^;

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今回の僕のメールマガジンはいかがだったでしょうか?

感想などをいただけるととても嬉しいし励みにもなります。
このメールにご返信いただければけっこうですので、楽しみにお待ちいたしております。

それから。。。
僕のコラムを読んでいただいたことはありますか?
読んでくださった方、いかがだったでしょう?

まだお読みいただいていない方はよろしければ
こちらからご覧いただけます。


そちらの感想やご意見もお待ちしております。

感想やご意見をいただいた方には、お時間をいただくかもしれませんが、
必ずお返事させていただきますね!

人の言うことを気にしたり、顔色をうかがったりしているほど人生は長くない!?

●●さん こんにちは

at WILL 心理セラピストの長井啓悟です。

唐突ですが、あなたは音楽は好きですか?

好きなミュージシャンとかいますか?

ニュースとかでご存知の方も多いでしょう、僕の大好きなSirポール・マッカートニーが
4月に再び日本にやってくることが決まりました!

東京、大阪では号外が出ていましたね。

じつは去年、幻の来日公演となってしまった大阪長居スタジアムのアリーナ席の
かなりいい席(自慢)のチケットを持っていた僕は、まさかの公演中止に失意の中、
ずっとこの日が再び訪れるのを待ち続けていたのです。

なんとかチケットを手に入れて憧れのスーパースターの素晴らしいパフォーマンスを
もう一度この目に焼き付ける事ができたらいいなと、今から興奮気味です。

ファンじゃない方にはどうでもよい話でごめんなさい(汗)

なぜこんな話をしたかというと…

はい、ポールといえばジョンですよね?
ちょっと安直な気もしますが(笑)

今日はそのジョン・レノンの名言からのインスピレーションを、
僕なりの切り口でお届けしようと思います。


それでは長井啓悟のメールマガジンをお届けいたします。
どうぞ最後までよろしくおつきあいください。

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人の言うことを気にしたり、顔色をうかがったりしているほど人生は長くない!?
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“人の言うことは気にするな。

「こうすれば、ああ言われるだろう」

こんなくだらない感情のために、どれだけの人がやりたいことも出来ずに死んでいくのだろう。”

僕より若い方でも、音楽に興味のない方でも、その名前くらいはご存知でしょう。

元ビートルズのメンバーで1980年に40歳の若さで非業の死を遂げた
ジョン・レノンの残した名言です。

返す言葉もない、ぐうの音も出ない核心を突く言葉だと思います。

「本当はこうしたいけど、言ったら反対されるだろうな」

「こんなことしたらきっと周りに妬まれるだろうな」

「自分だけ行かなかったら、これから仲間はずれにされるだろうな」

「思いどおりにやって失敗したら怒られるだろうな、みんなの笑いものになるだろうな」

こんなふうについ感じたり、思ったりして、自分の本心をぐっと抑え込んで、
誰かの意見に従ったり、周りに合わせてしまったり。

なんていうこと、一度や二度は経験がありませんか?

これって実は、幼少期の親子関係とも深く関わっていたりします。

「こんなことしてお父さん、お母さんに叱られないかな?」

「だからだめって言ったでしょ!」

「おまえには無理なんだから!」

「お父さん、お母さんの言うとおりにしていればいいんだ!」

小さい頃、両親に対してこんな気持ちを抱いたり、
こんなふうに言われた経験がありませんか?

親に怒られないために、ほめられたいとか、見捨てられたくないという思いから、
子どもはいつしか親の顔色をうかがうようになります。

そのときの気持ちが昇華されないまま大人になることで、
その頃に身についた心の習慣が、何かをやろう、言おうと思ったときに
他人の目を気にするという形でブレーキをかけている場合もあるのです。

これをやっているうちは思いどおりに生きることはできません。

YES, NOがはっきり言えないことは他人に人生を委ねてしまっている、
支配させてしまっているといっても言い過ぎではありません。

もし、思い当たるところがあるなと思うなら、まずそのことに気づき、
今一度自分は本当はどう在りたいのかを正直に、自らの心と向き合い、
問いかけてみることです。

結局はいつになったら精神的に親離れをするのか?ということ。

あなたはいつまで親の言いつけを守り、顔色をうかがって、
親の思いどおりの人生を生きますか?


【それって単なる自意識過剰では?】

常に人目を気にし、なにをやるにも他人の評価が気になって仕方がない。

それではとても、いえ一生自分のための人生など生きることなどできず、
それこそジョンの言うとおり、やりたいこともできず死を待つだけになるでしょう。

ではどうしたらいいのか?

これは僕にとっても大きなテーマです。

実を言うと僕も、心理セラピーに本格的に取り組もうと活動を始めて以来、
ブログやメルマガを書くのがイヤというか、恐いと感じるようになりました。

だって世の中には、僕の大切な恩師でもあるカズ姐さんをはじめ、
たくさんの優秀なセラピストやカウンセラーを名乗る方がいるわけです。

僕みたいに大した実績も何もない人間が言うことをいったい誰が聴いてくれるだろうか?

諸先輩方に、なにを偉そうにとか、わかったことを言うなと思われるのではないか?

間違いや言葉足らずを指摘されたらどうしようか…

そんなことを考えると、不安や恐れで、キーボードを叩く指も
ついつい止まりがちになってしまいます。。。

そこで、心許せる知人や友人に正直に打ち明けて相談してみたところ、
みんなから返ってきた答えは一様に「それって自意識過剰じゃない?」と、
一笑にふされてしまいました。

でもね、考えてみればたしかにそうなんです。

だってみなさん活躍されている方は忙しいのです。

僕なんかの比じゃないくらい。

そんな方々がいちいち僕の書いてることや言ってることなんて気にもとめていないでしょうし、
大半の方が僕のことなんて知りもしないのです。

そう思ったら本当に自意識過剰な自分が逆に恥ずかしくなってきて、
何様のつもりってやつですね(笑)

完全に不安や恐れを払拭できたわけではないですが、かなり気持ちが楽になったのは確かでした。

【みんな自分のことで精一杯なんです】

人はみな、それぞれにいろんなことを抱えながらも一生懸命自分の人生を日々生きているものです。

自分だけが特別なわけではなく、みなそれぞれに大小様々な問題を抱えていたり、
向き合ったりしているものなのです。

そしてそれらはすべて、それぞれに“自分の問題”であり、たいがいの人はそのことで精一杯、
他人のことなど気にしたりかまっていたりする余裕なんてないのではありませんか?

極端な話、あなたが今日生きようと、明日死のうと、ほとんどの人にとってそれは
まったく関係ないことなのです。

あなただってそうではありませんか?

日々、常に特定の誰かのことを考えたり気にしたりしていますか?

なんだかんだ毎日、自分のことで必死なはずです。

あなたの一挙手一投足を誰かが見張っていますか?

そんなことでもあるならともかく、それこそ自意識過剰、考え過ぎ、思い過ごし、妄想ですよ。

そんなときこそもっと自分に、他人や外側にばかりでなく、内側に意識を向けるべきなんです。

ありもしないことに心奪われ、他人の目を気にして、自分の人生を楽しまないなんて
とてももったいない気がしませんか?

人がどう思おうと、なにを言おうと、それはその人の問題であって、
僕やあなたの問題ではありません。

関係ないのです。

自分と他人の境界線をはっきりさせることも重要です。

関係ないことに振り回されて、自分らしさを失っていく人生はそろそろ終わりにしたい。

そう心から思うこの頃です。

ではまた。
最後までお読みいただき本当にありがとうございました。

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『編集後記』
{COL1}さん、今回のメールマガジンいかがでしたか?

他人の目や評価を気にするあまり、その人本来のパフォーマンスを発揮できず、
本当はもっとやれるのに、燻っていたり日の目を見ずにいる人ってたくさんいると思うのです。

今の世の中、なかなか思ったことを言えない、言ってはいけないような風潮さえあるのも事実です。

「和をもって尊しと為す」という言葉がありますが、果たしてそれは本当に
自己犠牲の精神を美学とせよというような意味の言葉なのでしょうか?

むしろそういう意味にしてしまっているのは、
私たちの在り方だと思うのは僕だけでしょうか?

自分より周りの多数を重んじ、ときには長いものに巻かれるのが協調性だったりするのでしょうか?

たとえ協調性を要求される場面でも、思いを心に閉じ込めたり、
主体性を捨てる必要もまったくないと僕は思うのです。

ジョン・レノンは他にもたくさんの名言を残しています。

僕も好きな言葉、心に響いた言葉はたくさんあります。

「そうだ、自分はいったいあと何年生きるつもりでいたんだろう?」

平均寿命からいけばとうに半分以上は過ぎてしまった、早く自分の人生を生きなければ、
楽しめる若さ、気力、体力があるうちに、一日も早く自分の人生を取り戻さねば…

そう考えると、誰かの言うことや顔色を気にしている場合ではありません。

もう肉体的にはとっくに親離れしているはずですからね。

ジョンの言葉に、本当に目が覚める思いです。

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今回の僕のメールマガジンはいかがだったでしょうか?

感想などをいただけるととても嬉しいし励みにもなります。
このメールにご返信いただければけっこうですので、楽しみにお待ちいたしております。

それから。。。
僕のコラムを読んでいただいたことはありますか?
読んでくださった方、いかがだったでしょう?

まだお読みいただいていない方はよろしければ
こちらからご覧いただけます。


そちらの感想やご意見もお待ちしております。

感想やご意見をいただいた方には、お時間をいただくかもしれませんが、
必ずお返事させていただきますね!

笑ってごまかすとき、笑顔の裏にある本当の思いとは。

●●さん こんにちは

at WILL 心理セラピストの長井啓悟です。

相変わらず寒い日が続いています。

今年は暖冬だと聞いていましたが、暑さにはめっぽう弱いけれど、
寒さには強い僕が今年は寒い!と感じるのだから相当寒いはず!?

1月は雨の日が多く、これを執筆している今も、
外は昨夜からの冷たい雨がやむことなくずっと降り続いています。

さすがにひと月近く鬱陶しい日が続くと、気分も滅入りがちだったりしますが、
風邪やインフルエンザが猛威を振るっています。

あなたはお風邪など召されていませんか?

健康管理には十分配慮し、元気に冬を乗り切りたいものです。

それでは長井啓悟の第4回メールマガジンをお届けいたします。
どうぞ最後までよろしくおつきあいください。

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笑ってごまかすとき、笑顔の裏にある本当の思いとは。
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あなたはどんなときに笑いますか?

人が笑うときって普通はおもしろいとき、楽しいとき、うれしいときだったりしますよね。

だけど人は「そこ笑うところじゃありません。」というときにも笑ってしまうことがあります。

人間は笑うことによって極度の緊張状態をやわらげたり、恐怖をごまかしたり、
ときには痛みをこらえるときにも痛すぎて思わず笑いがこみあげたり…

つまり笑うことで感じないようにする作用があるのです。

いわゆる「笑ってごまかす」というやつです。

じつは僕もいまだにその習慣が残っていて、難しい質問をされたり、できそうもないことを
頼まれたり、もの凄く困ったときなど、知らず知らずに笑ってしまっていることが多々あります。

これを「死刑台の恐怖」という言葉で表現されることもあるんですが、なんだか怖いですよね。

まさに今、死刑台に上り、刑が執行されるときを待つ死刑囚が死の恐怖から思わず笑ってしまう様を
表現したものですが、死の恐怖とまではいわなくても、{COL1}さんもこのような経験がありませんか?

【ゆがんだつくり笑顔で恐怖と屈辱をかき消すしかなかった幼少時代】

僕は今思えば、幼稚園、小学校と幼い頃はとてもわんぱくで目立つ子どもでした。

ですから幼稚園や学校で怒られるなんていうことは日常茶飯事。

たとえば幼稚園のときのエピソードですが、僕はふざけたり、いたずらをしては先生に怒られて、
仏教系の幼稚園に通っていたため、みんなが園庭で楽しく遊んでいるとき、
僕だけ御仏様(みほとけさま)のおられるだだっ広い部屋にひとり連れて行かれ、
仏様の前でずっと正座させられたことが何度もありました。

まだ4歳や5歳の子どもですからね、そりゃみんなが外で遊んでいるのは羨ましくて仕方ないわけです。
同時に子ども心にみじめで悲しくて、みんなに指をさされて、かっこ悪くて恥ずかしくて。

幼い僕にとっては屈辱であると同時に、いつまでこの孤独な軟禁状態が続くのかという
恐怖を感じていたわけです。

恐怖という意味では、迎えにくる母親にも、今日こんなことがありましたと先生から報告され、
帰ってからも今度は親に怒られるという恐怖もあったわけです。

怒られて、自分だけ表に出してもらえず、暗くだだ広い部屋にひとり置き去りにされ、
みんなにその姿を笑われて…

その恐怖と屈辱と悲しさを紛らわせるために、いつしか僕は平気なふりをして、
よけいにおどけてみせたり、わざとヘラヘラ笑ったりして、
さらに先生の怒りを買うという悪循環を繰り返していました。

小学校のときもそうでした、自分だけ先生の机の真横に席を移されたり、
いちばんひどかったのは廊下に机を出され何日もその状態を続けられたときでした。

毎日毎日、廊下で友達や先生が通るたびにからかわれたり、反省してるのか聞かれたり、
そのときは本当につらくてつらくて、ちょっと油断したらわーっと泣き出してしまいそうになるのを
ゆがんだ作り笑いをうかべることで必死でごまかしていたこともありました。

あれはさすがに堪えましたし、学校に行くのが苦痛で苦痛でしかたありませんでした。
なにが悲しかったってほかのクラスの先生も声もかけてくれなかったです。

親はそんな状況の僕を来る日も来る日も、出かける前、帰ってからと恥さらしと罵倒するだけで、
誰も助けてくれなかったことです。

いや、今思えばあれは虐待ですよ。
はっきり云います、僕はもの凄く傷ついていました。

【いつしか身につけてしまった、ゆがんだ笑顔でごまかす術】

僕のゆがんだ笑顔の下にはとてつもない、悲しさと、怒りと、悔しさと、恐怖と屈辱があったのです。

そしてそれらはまだ、未完了のまま僕の心のなかで消えずに残っているのを感じる瞬間があるのも事実です。

その頃から僕は、つらいことやイヤなこと、傷ついたり困ったりすることがあると、
しらずしらずに笑ってしまう習慣がついてしまったようなのです。

あなたの笑顔の裏にある本当の気持ちは、思いはなんですか?

怖いと言ってもいいんです。
悲しいと、悔しいと、イヤだと、腹が立つと言ってもいいんです、感じていいのです。

感じることをやめない、感情にふたをしないこと。

傷ついているのに、それを隠してつくり笑いでさらに自分をみじめにすることはもうやめるべきです。

悲しかったら泣けばいい、悔しかったら怒ればいい、イヤだったらイヤだと叫べばいいのです。

もしそんな過去からのつらい思いを抱えている人がいたら、今からでも遅くはありません。

笑顔の裏にある本当の感情と向き合い、それがいつのもので、どこからきているのか。

その声に耳をかたむけ、わきあがる思いにふたをせず正直に感じてみる、寄り添ってみる。

過去の恐怖や悲しみをきちんと終わらせ手放すために、そこからはじめてみませんか?

恐れから笑顔をつくるなんてとてもナンセンスです。

楽しいとき、おもしろいものをみたり聞いたりしたとき、素敵な人やものや場所、
大好きな人に出会ったとき、そんなしあわせなときにだけ笑えばいい。

そういうときに素直に、心から笑える人でありたいものです。

ではまた。
最後までお読みいただき本当にありがとうございました。


『編集後記』
今回のメールマガジンいかがでしたか?

今思えば本当にこの手のネガティブなエピソードには事欠きません(汗)

小学生のときの廊下に一週間以上机を出された件は、結局それをたまたま見かけた
どこかの父兄が学校に抗議してくれて、もとに戻してもらえたように記憶しています。

幼稚園のときに叱られたことで鮮明に覚えていることのひとつですが、
先生が「今日はみんなの好きな歌を唄いましょう」と言ったのです。

そこで、同世代の方にしかわからないかもしれませんが、
僕はちょっとふざけて当時テレビからよく流れていた山口百恵さんの
歌を唄ったのです。

「あっなたーがのぞむならー、わたしーなにをーされてもいいわー♪」

歌詞の意味などまったくわからず、ただ覚えていたフレーズをくちずさんだだけのことでしたが、
周りのお友達が笑っているのに気をよくして調子に乗っている僕の襟首を血相を変えた先生が後ろからつかみ、
“みほとけさま”のおられる別室へと引きずって連れて行きました。

当然ながら先生のいう、みんなの好きな歌というのは童謡とかの類いの歌です。

今思えば、みほとけさまの子ども達の前でこの歌はまずかったな、とは思いますが(笑)

こっぴどく叱られて、御仏様にごめんなさいをさせられ、帰ってからも親から怒られ、
しばらくテレビも視せてもらえず散々でした。

本文でも書いたとおり、自分だけ暗く冷たい、ただただ広い別室から、
みんなが外へうれしそうに出かけていくのを横目に見送るときのさびしさ、
悲しさ、屈辱感といえばなかったですね。

「僕もいきたーい!」

つくり笑いで余裕をかましてみせていても、心ではそう泣き叫んでいたに違いありません。

それ以来、僕は山口百恵さんが苦手になってしまって、テレビで見かけるたびに
そのときのことを思い出してしまうのがつらかったのです。(実話です)

余談ですが小学生の頃、桜田淳子さんのほうが好きだったのはそのせいかな?
と感じたりもしています(笑)

ちょっと古くて、わかる人にしかわからない話で申し訳ありません^^;

今でこそ笑い話に変えられる部分はありますが、きっかけひとつで、
子どもの心にはそんな余分なトラウマまでできてしまうものなんですね。

こんなふうに小さな頃の悲しい出来事や怖かった経験が、感じることを恐れ、
本当は悲しいのに、怖いのに、笑顔でそれをおさえこむ。。。

なんだかやるせない、とてもせつない気持ちになるのは僕だけでしょうか?

もし、あなたにお子さんがいらっしゃったら、その子の笑顔は大丈夫ですか?

注意深く、愛情深く、やさしく見守ってあげてくださいね。

もちろん、あなたの中にいる、幼かった日のあなた自身のことも気にかけてあげてくださいね。



〈今回の僕のメールマガジンはいかがだったでしょうか?〉

感想などをいただけるととても嬉しいし励みにもなります。
このメールにご返信いただければけっこうですので、楽しみにお待ちいたしております。

それから。。。
僕のコラムを読んでいただいたことはありますか?
読んでくださった方、いかがだったでしょう?

まだお読みいただいていない方はよろしければ
こちらからご覧いただけます。


そちらの感想なんかもお待ちしております。

感想やご意見をいただいた方には、お時間をいただくかもしれませんが、
必ずお返事させていただきますね!

僕はお父さんとお母さんの本当の子じゃないの!?

●●さん こんにちは

at WILL 心理セラピストの長井啓悟です。

早いもので、1月も半分が過ぎました。
なんだか年齢を重ねるごとに1年、1年の経過が早いと感じるのは気のせいでしょうか?

10代、20代の頃は時間が無限にあるようで、
むしろ日々をもてあますような感覚さえありましたが、

40代も半ばを過ぎると、なぜか時の流れが速くて自分の歩みよりも時間が
どんどん先に進んでいってしまうような焦りを感じることもあったりします。

20代のうちに気づいておけばよかった…
30代のうちにやっておけばよかった…

そんな後悔もしょっちゅうですが、過ぎた日々は取り戻せず、
過去を悔やんだところでどうなるものでもありません。

それでも振り返ればこそ気づく、過去からの学びもあると思うのです。

あなたはご自身の過去になにを学びますか?

年頭に僕は40代を気づいてよかった、やっておいてよかった、
と振り返ることが出来るよう、
今日を明日を、一日一日を大切に刻んでいこうと自分と約束しました。

悔いのない人生を、望む未来を創造していきたいものですね。

それでは長井啓悟の第3回メールマガジンをお届けいたします。
どうぞ最後までよろしくおつきあいください。


【僕はお父さんとお母さんの子じゃないの!?】

僕は子どもの頃、もの心ついたときからずっと
「おまえは橋の下から拾ってきた子だ」と言われ続けていました。

悪いことをしたときはもちろん、そうでない普通のときにも言われたりしていたので、
自分の中では子どもながらにとても信憑性のある話に聞こえ、
本当にショックを受けていたのをよく覚えています。

今になって思えば、親からしてみればほんの脅し文句だったり、
ふざけて子どもをからかっていただけなのかもしれませんが、
 
自分が何の疑いもなく親だと信じていた人が、実はまったくの赤の他人だとしたら…
まだ幼稚園やそこらの子どもにとって、これほどつらすぎる、重い現実はありませんでした。

「おまは三条京阪の橋の下で拾ってきた子や」
「おまえはお父さんとお母さんの本当の子じゃない」
「もうすぐおまえの本当のお父さんとお母さんが迎えにくる」

これを言われる度にまだ幼かった僕は、本当にこの世の終わりのような絶望感と、
目の前にいるこの人たちから、本当の親に返すという名目でまた捨てられ、
 
住み慣れた家や家族と離れていかなければならないという、
恐怖とさびしさと不安で張り裂けそうな思いでした。

「うそだ、うそだって言ってよ!」
「いい子になるからそんなこと言わないで!」
「いやだ、ここでお父さんお母さんといっしょにいたい!」

ごめんなさい、ごめんなさい、ちゃんと言うこときくからこの家にいさせて、
お父さんお母さんの子でいさせてと何度も何度も泣き叫びながら両親に懇願しても、
 
当時の両親からは
「うそだよ、おまえはお父さんとお母さんの本当の子どもだよ。」
という言葉は一度も聞かせてもらうことはなく、
とても冷たい薄笑いを浮かべていた母の顔をがぼんやりと脳裏をかすめます。

そうですね、今思えばとくに母親はよくそれを言っていたことを覚えています。

同時に僕はいつも、
 自分の本当の両親ってどんな人なんだろう?
 やさしい人なのかな?恐い人かな?
 僕をどうして捨てたんだろう?
 新しい家に行ったらどんな生活が待っているんだろう?
そんなことをいつも本気で、真剣に考えていました。

【おまは三条京阪の橋の下で拾ってきた子や】
 
三条京阪というのは、滋賀県と僕の住む京都と大阪をつなぐ
京阪電鉄の駅のある場所なんです。
 
僕は小さい頃、親とこのあたりへ買い物などに出かける度に
「あんたはあの橋の下で拾ってきたんやで」と
からかうように言われるのが苦痛で苦痛でしかたありませんでした。

繁華街へ買い物に出かけるのはうれしかったけど、
それを言われると思うと憂鬱で複雑な思いでした。

おもちゃなんかを買ってもらってルンルン気分でいても、
それを言われた瞬間に奈落の底へ突き落とされたような気分でした。

結局それは僕が小学校3、4年生頃までずっと言われ続け、
やがて僕はそれを言われそうな空気を感じたときには
わざと親の気をそらそうとしました。
 
違う話を一生懸命したり、妹や弟に「おまえらもそうだ」と言ったりしていましたが
親から「それはおまえだ」と言われてはもはやなす術もありません。

両親を、妹を、弟をみては「ああ、自分だけがここの本当の家族じゃないんだ」
というつらすぎる現実と、妹や弟に「いいなぁ、あいつらは本当のお父さんお母さんで」
というなんとも悲しい羨望を抱いていました。

いつか迎えにくる本当の両親がいるという重い重い現実を受け容れることができず、
とにかく親に見捨てられないようにしよう、怒られないよう、喜ばせるよう、
あの話をされないようにせいぜい機嫌をとろうと、
いつも顔色をうかがっていたのを思い出します。

今思えばとても傷ついていたし、情緒不安定な子どもだったと自覚しています。

それ以来、大人になってからもずっと僕は「両親から嫌われている」
と思っているところがずっとあるのです。
 
今もそれが、たまに会う父や母から発せられる些細な、何気ない一言にとても
過剰な反応をして悲しくなったり、抑えきれない怒りの衝動に駆られたりします。
 
「やっぱり自分は父から鬱陶しいと思われているんだ」
「母はやっぱり僕のことを嫌っているんだ」
 
という思い込みというか刷り込みが容赦なく僕を苦しくめることが少なくありません。

僕には4歳の女の子がいるのですが、その子をみていると
小さい子ってとても純粋で無邪気で制限がない反面、

実はとても繊細で、観察力が鋭くて、大人の言動や行動にとても敏感で、
幼いなりにちゃんといろんなことを理解していたりします。

そういう時期に「おまえは拾ってきた子だ」のように、
ネガティブでショッキングなことを刷り込まれた子どもは、
とても自己重要感が低く、いつもどこかで劣等感と絶望感を感じているような人間に育ちます。

やがて僕がそうだったように親の顔色をうかがい、機嫌をとり、
怒らせないよう、見捨てられないようにという不安と恐れから
行動するようになってしまいます。

いちばんお父さん、お母さんが大好きで、愛されることをいちばん望んでいる時期に、
その大好きな人たちから傷つけられ、愛を与えれなかった子どもは、
大人になってもそのとき感じた絶望と孤独感をずっと持ち続けてしまうものです。

愛されなかった自分は価値がない。
まして拾われてきた子だなんて言われたらどうでしょうか?
捨てられるような自分は価値のない人間だ。
だからお父さんお母さんにも愛してもらえなかったんだ…。

ずっとそんな思いを抱えてきた僕は、いつもどこか満たされていなくて、
自分のことが価値のない存在に思えて、なんだかいつもさびしくて孤独で、
とても無力な存在なんだと感じて生きていたように思います。

さびしさからか誰かの気をひきたくて、わざといたずらをしたり、
ふざけたりおどけたりして、人に笑われるようなことをしてみたり。

そういえば、親や先生に怒られているときも、傷ついたり悲しかったりしても
それを隠すように、本当は今にも泣き出しそうな自分を必死でおさえて
歪んだ笑みをうかべていた幼い日の自分を思い出したりもします。

【本当に自分がしてほしかったこと】

「うそやで、あんたはお父さんとお母さんの大事な子やで。」
って言ってほしかったなぁ。。。

本当は今からでもそう言ってもらいたい自分が、
ずっと心の奥で泣いているのを感じる瞬間がとてもつらかったりするのです。

お子さんのいらっしゃる方や、これからお父さん、お母さんになる方は、
どうぞ子どもにありったけの愛を注いであげてください。
まちがっても「おまえは拾ってきた子だ」なって言っちゃだめです。

どれだけあなたを愛しているか、あなたがいてくれるだけでお父さん
お母さんはどれだけうれしくて、しあわせであるかをたくさん伝えてあげてください。

生まれてきてくれて、お父さんお母さんのところにきてくれて
本当にありがとうねって伝えてあげてください。
いっぱい、いっぱい抱きしめてあげてください。

あなたが何かが出来ようと出来まいと、あなたはただ生きていてくれるだけで
お父さんやお母さん、それにたくさんの人をしあわせにしてるんだよ。
 
あなたは素晴らしいんだよ。
あなたはただそこにいるだけで、存在しているだけで
誰かをしあわせにできるとても価値ある存在なんだよ。

お父さんとお母さんは、あながいちばん大好きなんだよ、大切なんだよ。
 
愛しているよということをどうぞしっかりと教えてあげください。

きっと自己重要感の高い、自分も他人も大切にできる、
愛と強さとやさしさにあふれた存在として成長されることでしょう。


ではまた。
最後までお読みいただき本当にありがとうございました。

※編集後記
今回のメールマガジンいかがでしたか?

今回も僕の実際の経験をシェアさせていただくことで
なにかを感じていただければと思い書かせていただきました。

実は僕のように「おまえは拾われてきた子だ」と
親から言われた経験のある人はとても多いということを聞きました。
とくに僕と同世代の昭和40年代生まれの人は、
当時なぜかそういうことを親が子にいう風潮があったそうです。

考えたらとんでもない話ですよね。

僕と同世代の人には自己価値の低い人や、いつも他人の評価を気にして
不安や恐れから行動してしまう人が多いのかな、
などと考えたりもしてしまいます。

自分はちゃんと愛されて育ったという実感をもてず 大人になった人は、
自己重要感が低く、不安や恐れ、
孤独感や無力感を抱いていることが少なくありませんし、
いわゆるアダルトチルドレンと呼ばれるような状態にある人もめずらしくありません。

僕がいう「自分軸を育てる」って、傷つき絶望感を背負った心と向き合うことで、
どこでひっかかっていて、何につまづいているのかを洗い出し、
 
親から受け取った価値観やありがたくない刷り込みをそっくりそのまま親に返し、
心のなかをクリアにし、自分は愛すべき価値ある存在なんだという
新しい在り方に書き換えていくことなんですね。

人は何かができるから価値があるとか、できないから価値がないとかではありません。
「なにかができようとできまいと、私は、あなたはただ存在しているだけで価値がある。」

どうぞそのことを忘れないで、あなたのための、あなたらしい、
あなただけの人生を創造していきましょう。



今回のメールマガジンはいかがだったでしょうか?
感想などをいただけるととても嬉しいし励みにもなります。

このメールにご返信いただければけっこうですので、楽しみにお待ちいたしております。

それから。。。
僕の音声ファイルは聴いていただけましたか?
聴いてくださった方、いかがだったでしょう?

まだお聴きいただいていない方はよろしければ
こちらからダウンロードしていただけます。

http://goo.gl/1iMiVG

そちらの感想なんかもお待ちしております。

感想やご意見をいただいた方には、お時間をいただくかもしれませんが、
必ずお返事させていただきますね!

遠い日に残してきた未完了の思いってありますか?

●●さん こんにちは

at WILL 心理セラピストの長井啓悟です。

新しい年、2015年がスタートして早1週間が過ぎました。
●●さんはどんなお正月を迎えられましたか?

僕は三が日だけお休みをいただきましたが、僕の住む京都は
なんと61年ぶりの大雪で、連日猛吹雪、道路には街中とは思えないほどの
雪がつもり、ほとんど家から出ることもできませんでした。

最終日にはなんとか近所の神社へ初詣に出かけ、翌日にはご先祖様の
お墓参りに行き、去年1年間健康で過ごせたことへの感謝と
今年にかける思い、1年間また一生懸命に生きますという報告をしてきました。

そうそう、元日に実家に行き、そこでいきなり父親と大喧嘩をして
しまったりなんてこともありました(~_ ~ ;

その辺のエピソードもどこかでお話できれば...とは思っています(笑)

それでは長井啓悟の第2回メールマガジンをお届けいたします。
どうぞ最後までよろしくおつきあいください。


【遠い日に残してきた未完了の思い】

さて今日はタイトルのとおり、未完了の思いについて
僕の経験をもとにお話したいと思います。

「未完了の思い」というのは簡単にいうと読んで字の如く、

過去のネガティブな体験から生じた未だに終わっていない
処理しきれていない心の中にある思い、
叶えられなかった願望や消えない傷み、
恐れなどの感情のことを云います。

では、その未完了のなにが問題なのか?

たとえば幼い頃に経験したなにかが、未完了のまま心のどこかに残ってしまっている場合。

あまりにつらい経験であったために思い出さないよう心の奥底に封印してしまっている場合。

時間の経過とともに表面上では忘れてしまっていたり、あきらめて切り替えたつもりのことが、
それと似たような出来事やシチュエーションに遭遇したときにフラッシュバックのように思い出されて悲しくなったり、

怒りがわきおこったり、またあのときと同じようなつらい思いをしてしまうのではないかという不安や恐れから
身構えたりして人間関係に支障をきたしたり、生きづらさをもたらすことがあるからです。

●●さんはそんな経験や思い当たるところはありませんか?
これって実は多かれ少なか誰にでもあることだと思います。

僕もたくさんあります。。。

今日は僕の子どもの頃の経験をお話ししますね。

●●さんは森永製菓さんのチョコボールというお菓子はご存知ですよね?
当時はビューティフルサンデーの田中星児さん(古い!)がCMに出ていたのを覚えています。

あれの目玉はなんといっても封を開けたときに箱のくちばしのところに金のエンゼルが出たら1枚、
銀のエンゼルなら5枚を集めて送ることでもらえるおもちゃのカンヅメでした。

僕も幼い頃、どうしてもおもちゃのカンヅメがほしくて、お菓子といえば必ずチョコボールを買い、
金のエンゼルが出ますように、せめて銀のエンゼルが出ますようにと祈るように箱を開けては一喜一憂していたのを覚えています。

余談ですが金のエンゼルは奇跡的な割合でしか当たらないのでほぼ期待できませんでしたが、
銀のエンゼルは金ほど出現率は低くなかったので、僕は確実に5枚集める作戦を選択していました。

そして、一生懸命チョコボールを買って、長い月日をかけてなんとか4枚まで集めることができた僕は、
それを大事に机の引き出しにしまい、学校から帰ると毎日のようにながめては
「ああ、あと1枚だ、あと1枚でおもちゃのカンヅメがもらえるぞ♪」と、
それこそ夜寝る時までそのことを思い浮かべながら次にチョコボールを買うときを楽しみにしていました。

そしてついに…
ついに僕は5枚目の銀のエンゼルを引き当て、一目散に小躍りしながら家に走って帰りました。
「やった!ついにやったぞ!ついにおもちゃのカンヅメを手に入れたぞ!」

そのときのうれしかったこと、たかがお菓子の景品とはいえ、
子どもの僕にとってはこのうえない幸福感と
達成感に満たされた歓喜の瞬間でもありました。

そして僕は部屋に直行し、胸の高鳴りをおさえつつ4枚の銀のエンゼルがしまってある引き出しを開けたのでした。

開けたのでした…

しかし…
目の前にあらわれた光景は、うれしさのあまり高鳴る胸の鼓動を、一瞬にして不安の胸騒ぎに変えました。

「ない。」
昨夜までそこにちゃんとあった4枚の銀のエンゼルがどこにもありませんでした。

僕はわけがわからなくてとにかく必死で、
心臓が張り裂けそうなくらいドキドキしながら引き出し中をさがしまわりました。

ふと気づけば、ほかにもいろいろとあったものがなくなっていたり、
レイアウトが変わっていました。

僕はとっさに母を問いつめました。
「ここにあった銀のエンゼルは!?」

母は言いました。
「机の中が汚いからゴミは全部棄てた」

僕は全身から血の気がひいていくのを感じ、やがて全身がふるえるほどの怒りがこみあげ、
もうそれをおさえることなどできませんでした。

僕は母に「なんで、なんで棄てたんだ!なんで勝手に棄てるんだ!
ゴミじゃない!せっかく集めたのに!
長いことかかってやっと集めたのに!
返せ!全部返せ!一生懸命集めた僕の銀のエンゼルを返せ!!」

と、精一杯の怒りをぶつけましたが、しょせんは小学校の1年か2年の子どもです。

バシッ!と一発、頬に衝撃と熱い痛みが走るのと同時に、
僕のささやかな抵抗は瞬殺されてしまいました。

母は、親に向かってどうのとか、そもそも誰が買ってやったものだとか云っていたように思いますが
もうショックでショックで、そんな言葉は耳に届いていませんでした。

僕はただ、にぎりしめたおもちゃのカンヅメに変わるはずだった5枚目の銀のエンゼルをながめながら
ただただこみ上げるむなしさとくやしさと怒りを必死でこらえ、悲しくて悲しくて、ただただ悲しくて
涙が止まらず、ずっと泣き続けていたの覚えています。

今も書いていてなんともいえない気持ちがこみ上げてきます。。。
まさに未完了の思いですね。

その後、僕はもう一度集め直すことを試みましたが、
ただでさえ集めにくいものをまた一からという気の遠くなるような感覚と
チョコボールを買う度に思い出す悲しい光景と母への感情、

そしておもちゃのカンヅメ自体が僕のほしかったそれとはちがうものにリニューアルされてしまったこともあり、
とうとう僕がおもちゃのカンヅメを手に入れることはありませんでした。

ただ、今でもコンビニとかでチョコボールを見かけると、おもちゃのカンヅメほしかったなぁ…って複雑な思いがしたりします。

また、それ以降僕は母親のことはもちろん、誰のことも信用できなくなり、
学校へ出かける前には母親にこれはゴミじゃないから、
しまってあるものだからと念を押してから出かけたり、
帰ってきたら真っ先に自分のものが棄てられていないか確認したりする非常に神経質で、

人を信用しない、なんでも疑って見る子どもになっていきました。

大人になった現在でも「とにかく人は僕の大切にしているものを棄ててしまう→壊してしまう→奪う」という思い込みが刷り込まれ、
人間関係やパートナーとの関係においてもそこがネックになっていると感じることが少なくありません。

僕はゴミとわかっているものでも、誰かに棄てられるのがすごくいやで、自分で棄てないと気が済まなかったりします。

そういった心理が働くからでしょうか、実際僕のパートナーは以前はよく僕のものを勝手に棄てたりしていましたし、
僕が大切にしているもの、たとえば車なんかはぶつけて壊してきたりなんていうのは今もしょっちゅうあるし、
信じられないような話ですが、棄てるなよ、壊すなよと強く思っているときに限って
図ったようにそれらのことが繰り返されるという悪循環…。

思考は現実化するとはよくいったもので、そういう思考や感情が知らず知らずに
自分の中の恐れを現実化してしまっているとしたら、ちょっとおだやかではないですよね。

ではこの未完了をどうやって「完了」させるか?

まずは自分の中にある悲しみや怒りの原因がいったいどこからくるものなのか?

もし自分の中に未完了となっている思いや傷みがあると気づいたら、そのことをごまかさず否定せず素直に受け容れること。

信頼できる人に心の中をうちあけ、話を聴いてもらうのもひとつの方法ですが、
本当に大切なのはそのときに感じた悲しみや怒り、傷みや絶望といった感情や感覚を
外側に解放していくということが重要になります。

あなたを生きづらくさせる、人間関係をぎくしゃくさせる未完了の“感情を終わらせる”
と云ったらわかりやすいでしょうか?

ずっと満たされないままの思い、吐き出せなかった怒りや悲しみといった感情と向き合うことは、
一時的には苦しかったり、ときに痛みをともなうこともありますが、

あなたが自由で心軽やかに、自分らしく生きていくための大きな変容をもたらす契機となることを信じて疑いません。

長くなりましたが今日はこのへんで。
最後までお読みいただき本当にありがとうございました。 

※追伸

今日は僕の子どもの頃の経験をシェアさせていただくことで未完了というテーマでお話をしました。

僕のケースは、そのときの母に抱いた怒りとか悲しみの感情を解放すること。
なおかつ、今からでもおもちゃのカンヅメを手に入れることができたら、
よりよいかたちで未完了を終わらせることが出来ると思います。

正直、本文でも触れましたが、幼い頃の記憶をたどりながら、当時の情景や心の動きをありありと感じ、
いまだ消えない母への複雑な感情や、満たされなかった思いがこみあげてくるのをおさえられませんでした。

終わっているようで終わっていないのですね…。

たしかそのことがあってから数年後に母にこの話をしたことがありましたが、
当然のように母は覚えていませんでしたし、おまえはしつこいと一喝されて終わりでした。。。

悲しいですよね。

でもね、やった本人なんてこんなものなんです。
だからといってまちがっても“現在の”本人にぶつけたり、
謝らせようなんて思わないこと。
100%逆効果で、新たな遺恨、問題を生み出すだけです。

「じゃあこの悔しさや傷みや悲しみはどこにもっていけばいいんだ!」

はい、本当にそうですよね。
同じような経験だったり、思いをもっていらっしゃる方もおられるかもしれません。

“自分の内なる思いに、心に、感情に正面から向き合う”
それしかないと僕は思います。

そんな思いに、決意に寄り添うために僕は活動をつづけています。

「自分と向き合う、本当の心に向き合う。」

その覚悟ができたらいつでもご相談いただければと思います。

今回のメールマガジンはいかがだったでしょうか?
感想などをいただけるととても嬉しいし励みにもなります。

このメールにご返信いただければけっこうです。
お待ちいたしております。

自分軸で生きることの大切さ

●●さん こんにちは

at WILL 心理セラピストの長井啓悟です。

2014年から2015年へ、新しい一年の始まりと時を同じに
記念すべき第1回目のメールマガジンを発行いたします。

2014年は●●さんにとってどんな一年でしたか?

僕の2014年をふりかえってみると、思いがけず新しいことにチャレンジし

その結果、自分の方向性、行く道がはっきりと見えてきて
そして最後の最後にまた思いがけずそれが一気に動き始めた、
これからの僕にとってとても大きな意味をもつ一年となりました。

そして2015年、この新しい一年の始まりの日に、
どんどん思いを形にしてゆく自分を想像し、ワクワクしている自分がいます。
 
では第1回、長井啓悟のメールマガジンどうぞ最後までよろしくおつきあいください。

【自分軸で生きることの大切さ】
 
僕が心理セラピストして活動していくうえで
とても大切にしている考えかたのひとつが
「自分軸で生きる」ということです。

では自分軸で生きることがなぜ大切なのか?
 
今日はそのあたりのお話をしていきたいと思います。

さて、“自分軸”って一言でいうとどういうことか?
一言でいう、これがけっこうむずかしかったりしますが(笑)

いろんな捉えかた、言いかたができるのですが…たとえば
「自分の人生の責任を自分でとる生き方」でしょうか。

では、自分の人生の責任をとるってどういうこと?

つまり誰かの人生ではなく、自分の人生を生きるということ。

世の中には両親はもちろん、誰かの顔色をうかがったり、言いなりになったり、流されたり、
言いたいことを言わず、心にフタをして思いとは裏腹に波風立てぬよう、
自分さえ我慢していればそれでいいという生き方を、
知らず知らずに選択してしまっている人が少なくありません。

それってまるで他人のための人生を送っているようなものですね?
“他人軸の人生”とはよくいったものです。

あなたの人生の主役はいったい誰ですか?

人はそもそも自分以外の人生を生きることなんてできないのです。

他人軸で生きている人にとってそれをやっていること自体、
実はとても無理のあることで、

無理をしているわけですから当然遅かれ早かれ心にも
身体にも支障をきたしてきます。

そのひどい状態が鬱をはじめ様々な心の病や、
身体反応としてアトピーやアレルギー、偏頭痛や肩こり、腰痛といった症状を
ひきおこしていることは決して少なくないのです。

本当はやりたいことがあるんだけど、周りから反対されたり止められたりするのがイヤでなかなか踏み出せない。
 
親や周りの言うことを聞かずにやって失敗して、
取り返しのつかないことになったら大変だ。

本当はイヤなんだけど、みんなからわがままだと攻撃されたり、
仲間はずれにされるのが怖くて言い出せない。
 
本心を言って人から嫌われたりやっかいなことになるくらいなら
多少のことは目をつぶって黙って周りに合わせているほうがマシだ。

そうやって自分の人生を気づかぬうちにあきらめてしまっているとしたら、
とても残念で悲しいことですよね。


でもね、実はそこにもうひとつ隠れた意図が垣間見えているのです。

僕たち心理セラピストやカウンセラーはよく「二次利得」という表現を用いるのですが、
そうして自分の意志ではなく、周りのコントロールや他人の意図に従って生きる選択をすることで
すべてを他人に委ねることで得ている利得があるとしたら…

{COL1}さんはこのことを聞いてどんなふうに感じますか?

なんだか怖い話だと思いませんか?
 
僕はこの話を初めて聞いたときとても恐ろしい感じがしたのと同時に、
ふと自分をふりかえり、なんだかとても腑に落ちたのを覚えています。

たとえば言いたいことも言わず、やりたいこともやらず、
欲しいものも欲しいと言わず、嫌なことも断らず。
 
一見とても良い人だったり、違う見方をすればいつも犠牲になっているかわいそうな人、
つまり犠牲者だったり被害者だったり。

そう、この被害者になれることがまさに二次利得だったりするのです。

いい人と思われたい。

かわいそうな自分でいることで誰かに同情されたい。
 
他人の言いなりになることで、自らチャレンジするというリスクを負わずに済む。
 
被害者でいることでいつも人生で起きる不都合なことを他人のせいにしていられる。

出来ない人、ダメな人でいることで誰かに助けてもらえたり、出来ないことをやらずに済む。
などなど…

要するに、他人軸でいることで結果に対して責任を負うことなく、
人のせいに出来たり誰かにお世話をしてもらえるというメリットがあるわけなんですね。

当然、誰かやなにかのせいにしているうちは、
自分の人生など生きられるはずがないというのもうなづけますよね。

みなさん、いかがでしょうか?
ドキッとされた方もおられるのではないでしょうか?

そこで目をそらし、耳をふさぐか。
自分のこととして受け容れ、もう一度自分の心に人生に真摯に向き合うか。

選択一つであなたの人生が大きく変わります。

そろそろ自分が人生の主役であるという自覚をしっかりもち、
自分の人生で起きるすべてのことの責任は自分にあると覚悟を決め、
誰の顔色もうかがわず、誰の言いなりにもならず、周りに流されず、
自由で思いのままに自分らしい人生を謳歌する。

そんな決意をする絶好の機会かもしれませんね。

他人軸から自分軸の人生へ。
 
実はこのことは僕にとっても本当に大きなテーマです。

このテーマはこれからも折りに触れお話していきたいと思います。
今日はこれくらいで。

最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。

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お待ちいたしております。